『日本再興戦略』 落合陽一著 〜書評〜

 先日『日本再興戦略/落合陽一著』を完読したので、その書評を記します。私がこの書籍を手に取った理由は、以前から落合陽一氏が発信する日本国の将来的展望に対して非常に共鳴しており、実際的な彼の描く日本国の未来像はどのようなものかを具体的且つ広範囲的に熟知したかったからです。本書を拝読する前にも『魔法の世紀』や『デジタルネイチャー』の購入を検討していましたが、受験期で中々手に取る事が出来ず、早く読みたいと強く感じていたので、今回の拝読体験は素晴らしいものになりました。ちなみに今挙げた書籍は既にAmazonでポチり済みです(彼の『日本進化論』と『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる』は高2の時に読了済み)。

 本書では欧米と日本の関係性や、日本の元来的コミュニティ観、テクノロジーが改変する世の中、政治復興、教育、会社・企業などについて幅広く、「日本再興戦略」を立てる為の重要なファクター群が、落合氏の広汎な良識と共に盛り込まれています。今の日本の現状考察が深く行われているので、今後の日本を再興していく上で要諦となる事柄をすんなりと理解する事が可能な書籍です。日本の現状を疑問視していたり懐疑的に感じている人には推奨する一冊です!

 では、いつもの私のスタンス「気になったトピックの要約→批評」という流れで話を進めていきましょう!

 


「西洋的な個人」の時代不適合性

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 欧米発の概念「近代的個人」は日本人には適しません。1860年代から全世界的に普及した国民国家の概念も未だ日本で定着し切っているとは言い難いのです。江戸時代などには鎖国を実施し、世界的な大戦争に巻き込まれずとも生活を維持してきたのが日本人です。当時は100〜300に渡る職業群があり、その中から数個を並行して行う兼任型労働が一般的でした。互助社会であり、個々人のポートフォリオマネージメントが確立されていた時代でした。江戸時代の百姓とは「100の生業を有す職」だったのです。にも拘らず、我々日本人は明治維新の時から、西洋由来の個人主義的思想を無理矢理にでも信奉し、現在はむしろ孤立感さえ生じさせてしまっているのです。元来から、アジア圏の人々には「全体と個人」という二元論的思想は適しません。古くから「言語によって分断を為す思考方法」が我々日本人にはインストールされていないのです。西洋的思想は「神的全能性」を追究しますが、東洋思想はあくまでも「自然」を求めます。日本人は古来から均質的で同調的な関係性の中に組み込まれているのです。

 実際、西洋の「全体:個人」的な二分法における民主主義制度は自己破壊の目前に立たされています。西洋的政治思想においては、個人は常に理性的で良識的な判断が出来ると捉えられますが、現実のポピュリズムによる民主主義の欠陥の吐露を鑑みればそのダウンサイドは明瞭なのです。戦国時代含め、日本は古くから共存的な分散型社会であり、中央集権を基に局在的権力を集中させる仕組みには適用でき難いのです。自国特有の文化に無理矢理西洋思想を内含させる必要性はなく、折からの重層的な複数レイヤーを兼ね合わせた生き方が適しているのです。政治に関しても、個人という社会的分断を為して「自分にとって良い政治とは」を問うのではなく、「私の属するコミュニティには何が有益か」を問うべきなのです。我々はまず、日本再興を行う為に「西洋的個人観」を超克する必要があるのです。

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 この指摘は滅法正しくて、小国が乱立していた邪馬台国時代含め、その他の時代においても、平安時代(ないし飛鳥時代)以降に中央集権的国家が成立し、安土桃山時代が終焉する時でさえ、国民を統括的に一管理者が指導する事はそもそも地理的・物理的に不可能だったので、あるAという街で生まれた子供は一生その街で暮らしていましたし、そもそも将軍など世の中にいるのかと言う人間も多々いたのです。現代は情報通信網が格段に発達し、高度化した社会の中で、中央集権的な国家運営が行われています。しかし、この書籍の後方にも登場しますが、緩やかに繋がり、職業が固定化されたカースト制度(インド)的な枠組みは意外と日本人に適合している蓋然性が高いのです。私も普段から教育改革を志していますが、やはり「日本人って他者との連帯性がないと一歩も足を踏み出さないんだなぁ」と痛感しています。その良し悪し・是非を解きたいのではなく、古来からの日本人的価値観を尊重した方が、実質的な社会運営や国家運営には有用なのではないかと実感しています。

 

平成という破壊の時代を超えて

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 グーグル翻訳が一般化したこのご時世に「無目的に英語を学ぶ」のは決して良いとは言えません。発信する情報源がない人間がどれだけ英語を学んでも、グローバルをいう名目で英会話が得意というトコロテン的な人材が増量するだけで、その分、逆に実際の意思疎通速度が遅くなっている可能性すらあるのです。ただ単に英語が話せる人より本格的な同時通訳者を雇用した方が良いのは自明でしょう。重要なのは発信する内容があるか否かであり、欧米を無闇に偏重するメディアやグローバル人材というフワッとした言説は一度疑視してみた方が良いのです。プレゼンや授業、講演を英語で行い、論文も英語で読み書きする必要性があるからこそ、英語学習が必要なのです。昭和的戦後社会のモデルから完全に脱却できたとは言い難い平成の時代を終え、ポスト平成の時代においては、自国のコアアイデアによってクリエーションを為す必要性があります。

comment

 このトピックに関しては、以前noteで「#クリエイティブ雑記」として意見を記載しましたので下記に載せておきますが、一応その後も深く思考した結果、仮に「昨今の国家経済に対する奉仕」を一つの目的として考えた場合は「GDPを上げる事」が肝要になる訳で、然らば、日本人全員が英語を学ぶ必要は全くありません。理由は至って単純で「自分の得意分野を鋭利的に伸長させて、その経済を回した方が発生する富の総量は増えるから」です。経済活動は労働に対するモチベーションの総量と密接に関係してくるので、その各因子が「取り敢えず英語を学んでおこう」と自分の時間を浪費している人達より、「この分野が大好きでたまらない、みんなにもっと知ってほしい」或いは「絶対に成功してやる」と考えている人達の方が良いに決まっているでしょう。正直私には結論がまだ見えませんが、やりたい事をする為に資格試験の評価基準を突破する必要があり、その為に学んでいる人は全然良いと思うのですが、何の目的もなく、ただただ資格試験での高得点を目標に英語を学んでいる人には、もっと他にやるべき事があるのでは?と思ったりもします。確かに英語を学ぶ事で母国語以外の思考方法をインストールする事ができ、言語学習とは文化学習であると云う学者も多々いるので、色々右往左往しつつも考えて続けていますが、また暫定的な結論が出たらお伝えします。

 

日本は機械親和性が高い

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 日本はTOYOTAを筆頭にモノ作り・製造業モデルの中で「ロボットを利用する場面」が多々あり、メディアの宣伝により広域にIT技術やロボティクスについての知識が伝搬した事でテクノロジーベースド社会、ロボットフレンドリーな社会に移行しやすいのです。西洋人はヒューマノイド(人型ロボット)以外にも、ロボットという機会があまり好きではありません。西洋的な発想では「労働とは神聖である」という定義が存在し、一神教の崇拝通例がある彼らは国の統治者に大いなる人格性を要求するので、AIには委任出来ないという風潮が色濃いのです。しかし日本はトップとしての天皇制を敷きつつ、実際は、中大兄皇子の称制や北条時政の時代の執権的な「ポスト」を中心に政治が運営されるので、そのポストがAIに代替されてもそこまで支障はありません。あくまで国の象徴は天皇だからです。しかし、現実手金いは日本にも「AIやITの利活用を批判する人」が一定数いるので、その際はウォシュレットを例に「あなたは他人に自分のお尻を洗浄されるのと、ロボットにしてもらうのどちらが良いですか」と問えば良いのです。

comment 

 いかにも。意外と忘却されてる事ですが、アメリカは独立後、自国で固有の文化を育みましたが、西洋・欧州はずっと一神教的です。現状を鑑みれば理解が容易ですが、アメリカ中心世界を担うGAFA的ユニコーンIT企業の様に世界的に認知されている企業は、欧州においては数える程しかありません。又、中国という超大国の具体例を顧みれば、日本の製造業の様にテクノロジーの力で人間の能力を外部化する事が可能な場合、多大な恩恵が得られる事が分かります。中国は現状の様な大勃興を果たす以前、社会環境の整備が十全ではなく、所々に問題・支障がある社会でした。しかしながら、その「誰もが感じた危険性」や「不便性」があったからこそ、それを改善したい!という強い願望と共に、QRコード決済やAIによる店舗・商業の自動化が爆発的に推進されたのです。つまり、科学技術に対する親和性があり、政策立案・政治的意思決定プロセスを順当に処理することさえ可能ならば、私達が今後大きく飛躍できる可能性のなくはないと思うのです。

 他にも語りたい事は多々あるのですが、後2つだけ簡単に且つ軽く紹介します。

 

センター試験をやめよ

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 日本の高校はもはや上級中学校です。中学校と小学校の完成度はある程度高いのですが、受験があるのでどうしても高校は上級中学校化してしまいます。例えば、センター試験が存在する事で、各高校の教育スタイルが規定され、その枠組みに限定した教育が行われてしまうのです。しかし、センター試験を破壊する事で「自分の趣向に特化した学び」が可能になり、生徒個々人の多様性が増します。今のセンター試験型の場合、有名国公立大学に入る受験生皆が「バランス型」の人間になってしまい、突起型人材が生まれません。筑波大学ではAC(Admission Center入試)で入学してくる生徒が最も優秀なのです。

comment 

 バランス型の人材が必要な時代はもう既に終わりました。現代社会では、突起型の個性的人材が密集し、各分野でそれぞれの得意分野を持ち寄るコミュニティが一番強い!しかし、有名国公立大学でさえもその様な教育を行っていません。確かに近年、国公立大の推薦入試枠の拡大が話題になっていますが、ST比然り、男女の学生割合の統計然り、真剣に大幅変更を熟議した方が良いのではないかと思います。意地とプライドだけでは為し得ない改革があると思うのです。

大学生には研究をさせろ

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 なぜ大学生に研究をさせる必要性があるかと言えば、研究を行う事でその人しか知らない事を身に付ける事が可能になるからです。研究は必ずや新規性が肝要になるので、その分野のトップオブザトップになる事が可能なのです。研究においては「コンテクストの理解」が重要で、Aさんはここまで発見し、Bさんはここまで達成したという事実をリサーチする事などがKFS(Keys for Success)になります。

comment

 このラストトピックに関しては完全に自分用で選出しましたが、大学に行った後に修士課程・博士課程に行く事を検討しているので、シンプルに参考になりました。まぁ実際は必ずしも研究でなくとも研究的活動(探究的研究)でも良いと考えていますし、呼称名をどう設定しようが本人の行っている事が研究的な行為としてカウントされるのであれば、それは将来的に非常に有用な経験となり得ると感じています。皆さんも研究を極めてトップオブザトップになろう!


 当然、この書評だけで本書を読んだ気分になって欲しくないのですが、本書は特にAI時代の生き方や現代社会を深く分析する際に優秀な書籍なので、この自粛期間中に少しでも自己研鑽し未来投資をしたいと考えている方は是非ご購入してみてください!

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miyabi_kyosaka
教育実践キュレーター。慶應義塾大学在学中。NPO法人日本教育再興連盟ROJE所属。読売新聞学生記者。日本若者協議会所属。某 AO入試専門塾講師。N高等学校出身。|「未来は予測するのものではなく、この手で創る」をモットーに圧倒的行動で教育を一新しようと、教育ジャーナリズムの活動をしております。