『正義の教室 善く生きるための哲学入門』飲茶著

『正義の教室 善く生きるための哲学入門/飲茶著』(以後『正義の教室/飲茶著』)を読んだので、その感想を記します。

この「書籍レビュー」というカテゴリーでは、書籍の評価に限らず人々の実生活に活かせる記事を作成していきたいと考えております。

しかしながら、記事の要約や書評などの類は私より上手い方が多数おられると思うので、それらを読んで頂きたいです。
今回はこちらhttps://www.chi-shizu.net/entryで非常に上手く本作品が要約されているので紹介しておきます。
時間に余裕のある方は、この記事を拝読してから私の記事を閲覧なさると良いと思います。
※参考までに以下の”Flier”というサイトでは、多岐に渡る本の要約が閲覧できます。https://www.flierinc.com/

私は本を読むことで得られた独創性ある新たな思考を皆さんと共有したいんです。
なので皆さんもぜひ、感じたことをコメントに記入いただければと思います。

では、話を本題に移します。
この著作は私が以前から大好きな飲茶さんが書かれたものです。

哲学や独立後のアメリカでよく耳にする「正義とは何か」について事細かに記されており、哲学的思考が好きな人や哲学入門者にとっては非常に魅力的な1冊となっています。

ソクラテスやニーチェが具体例として挙げられるとともに、哲学史で繰り広げられた論争・対立を分かりやすく見通せる作品です。

“正義”という人類にとって謎だらけの世界を、この作品を通じて考えてみて欲しいです。

では最初に『正義の教室/飲茶著』の概観、その後に私が同書を読んで感じたことを見ていきましょう。

Contents
1.『正義の教室/飲茶著』概観
2.飲茶さん(著者)は難しいことを簡単に説明する力に優れている
3.自分が一番正しい!を前提とした正義は全て押し付けである
4.正義は3種類に分かれる
5.あなたはどう生きますか

1.『正義の教室/飲茶著』概観
①(保育園の)火災現場において、時間がない中、別々の部屋にいる「自分の子ども or 多数の(自分の子じゃない)子どもたちのどちらかを助ける」という究極の2択に迫られた消防士の情景を解説。※ここで一発、読み手の正義観を燻る。

②正義の大まかな3種類「平等の正義(功利主義)」「自由の正義(自由主義)」「宗教の正義(直観主義)」を各々良い点と悪い点で整理。
その際、主人公の正義(まさよし)と知り合いである友達3人をそれぞれの正義(〜主義)ごとに投影。

ex)
千幸 : 功利主義
ミユウさん : 自由主義
倫理 : 直観主義
→結局、全ての正義には決定的なデメリットがあると毎度最後に記され、全員が倫理(教科)担当の先生に「そんな考えでは甘い!」と論破される。

③各々の主義を包括的に考察し、では正義とは一体何なのか、私たちはどう生きるべきなのかを主人公の正義(まさよし)が感じた思いと共に解説。

本書の簡潔な外観は以上です。

以下に私が本書を読んで感じたことを記していきます。

2. 著者の飲茶さんは難しいことを簡単に説明する力に優れている
話の流れとしては非常に読みやすく、何と言ってもこの作品は「理解しやすい」構成になっています。

その一番の理由は具体例が現代人の生活に馴染みがあるからです。

例えば、功利主義においては、ベンサムからミルに続く功利主義的正義観である「最大多数の最大幸福」という概念を用いて「限られたおにぎりを3人でどう分け与えれば良いか」を考えます。
その過程において、お腹一杯の人は快楽計算的(快楽を数字上で表した場合)に見たときの快楽(幸福)度は低いということが記されていたり、抽象的で難解な概念を日常生活に反映することでわかりやすい描写が為されています。

登場人物の個性が鮮明に描かれているので、人目見るだけであの人はこういう考え・主義・正義観を持った人なのだと理解できます。

私は飲茶さんのその他の書籍も既に何冊か読了していますので、その素晴らしさを何度も目の当たりにしました。
ぜひ、皆さんも飲茶さんの著作を機会に哲学を学んでみて欲しいと思います。

3. 自分が一番正しい!を前提とした正義は全て押し付けである
「功利主義」「自由主義」「直観主義」等々、様々な考え方が世界には存在しています。

自明ですが結論から言うと、前提的に他者の選択肢を排除した正義とは単に”自分の考え方を他人に押し付けるもの”であります。

例えば、登場人物の一人であり直観主義的思想をもつ倫理(りんり)は「人間なら誰しも必ず持っている善の精神」を説いています。

しかしながら、倫理(りんり)がその直観主義的思考を日常生活に転用してしまうことで、自由主義の発想を持ちMeism(私生活中心主義)混じりの主張をするミユウさんとぶつかります。

そして最後には、学校の倫理(教科)の風祭先生に直観主義を論理的に拒絶されてしまい、家に引きこもってしまいます。自分が信奉する〜主義を絶対としてしまうと、参加者の人間性が全面否定されるような議論が起こりやすいのです。

いずれにせよ、どの正義が正しいのかを前提として決めつけた上で人と接すると、その正義が食い違ったときに大きな軋轢が生まれてしまう可能性があります。多様化・複雑化する現代こそ、この書籍を読んで思考の広範囲性を確保して欲しいと思います。

さらに最近は、正義や意見にとどまらず、人の存在自体を卑下する方々も見受けられます。
例えば、朝まで生テレビを拝見した視聴者がしばしば「AさんはBさんを論破したがっている、AさんはBさんが嫌いなのか」といった趣旨のツイートをされています。しかし当然ながら(私が信じたい部分もありますが)朝生に出演されるほど著名な(良識のある)方々が目的に沿って進められた議論において他者と意見が食い違い、それによりその他者自身の人格・人柄(意見とは関係のない部分)を嫌いになることはほぼありえません。
なので、先ほどのようなツイートはかなり短絡的だと言えます。
もし仮に、BさんがAさんに対して議論とは関係のない非人道的発言を連発していたならまだしも、そうでないならば基本的にそのような判断は好ましくありません。議論とは常に誰もが発言でき、その中でブラッシュアップされていくべきものであり、〜さんは嫌いだから発言しないで!というのは現代の多様性を重んじる社会ではあまり適していません。

最初に記した正義観の押し付けもそうですが、それを超えて人自体を否定する風潮が日本には、特にネットには蔓延しているので、気を付けたいとロコです。

それらを踏まえて以下の4章で「正義の種類」を整理し、その概念的定義や私がそこで得た着想から何かを感じ取って欲しいと思います。

. 正義は3種類しかない
この作品では「正義の種類は3つしかない」と語られています。
先ほども触れましたが、この作品に登場する3種類の正義を簡略的にまとめてみます。

功利主義(平等の正義) ··· 人間の幸福の総量をできるだけ大きくしよう。幸福が一番大切であるという考え。
デメリット
(1)快楽量を数値で可視化するには明らかに無理がある。人的差異は当たり前にあるし、規定者が誰なのかも難しいポイントである。
(2)パターナリズム(父権主義)に陥りやすい。幸福の前提(幸福とは何か)やその可視的数値を誰かに支配され、その(誰かに決められた)幸福に向かって生きていかなければならない世界は本当に幸せなのでしょうか。
考えよう
(1)
現代において、中国では監視社会が進行している。
町中に張り巡らされている数々の監視カメラ。異質な空間がそこには広がる。
便利さを求めるとプライバシーを失い(中国的)、プライバシーを求めると便利さを失う(日本的)。
我々日本国が目指すべきはどこなのか。
例えば、GAFAやBATHと呼ばれるユニコーン企業群のサービスを何気なく利活用している私たちですが、実はお金を払っていない分、彼らに「情報」提供しています。
それはつまり一種のプライバシーを提供していることと同義だと言えます。
しかし、それによりある程度便利な社会(リコメンド機能etc.)が到来しているので皆あまり不愉快には感じませんが、実際アメリカのFacebookでは数多の情報が流出したり、住所が漏れたりして大変な騒ぎが発生しています。
安定的・安全的に情報を保管し続けることはあのFacebookでも難しいのです。
更に中国では、逐一人々の行動が数値化され、その信用スコアサービスの管理者にとって都合の良い行動は善とされ、都合の悪いものは悪とされます。
ネット社会・情報社会では上記のような事柄が推進していくと思われますが、我日本においてそのような環境整備を行うことは果たして良いことなのでしょうか。

(2)
一つの今日的世間の主張として「もうこれからの時代は個人情報が公開されるのが当たり前のことだから、何がバレてもいいように平然と生きるべき」というものがあります。
しかし私は現状これに反対しています。
なぜならば、本書における功利主義の説明でも登場する話ですが、結局人々がお偉いさんを窺う行動、権力に縛られた行動しかできなくなる可能性があり、人間本来の自由権やその他様々な権利が侵害される可能性が高いからです。
誰かに規定されて「ほら!これが幸せなんだよ〜!」と決め付けられ社会で生きることが果たして幸せなのでしょうか。
哲学者アーレントは全体主義を猛烈に批判していますが、例として「アドラーは民主主義で選ばれている」のです。
無思考な人間が量産され、民主主義の土台となる理性的判断能力を備えた人材が不足した場合、我々の社会は一変します。
「絶対的権力は絶対的に腐敗する」英国の歴史家ジョン=アクトンが語った言葉です。イノベーションのジレンマ然り、人々はしばしば権力に驕れてしまう。
常に双方(権力とその享受者)が均衡して監視しあえる関係性でなければならないのかもしれません。
冒頭の中国を筆頭に、情報の機密性や権力の一元化がもつ危険性を今一度考えてみて欲しいです。
無批判に民主主義を信仰し、その結果何も考えていなかった大多数の人々が投票数を独占し、その後、利便性を追求しすぎたがゆえに監視社会が日本に到来する可能性が現実としてあり得るのです。

※ちなみに、言論・表現の自由を統治国家によって統制されることは「独裁の始まり」を意味したりします。

自由主義(自由の正義) ··· 全ての基準は「自由であるか否か」で、自由が一番大切であるという考え。
時々世間が誤って自由主義に内含する「人間の幸福が最も大切である。そして自由こそ幸福に直結する。よって自由主義の立場を取る」と提唱するリベラリズム(社会福祉・再分配推奨型自由主義)は本質的には功利主義であり、本来の自由主義思想ではないので区別すべきと風祭先生(倫理の教科担当)は言う。
本来の自由主義は「リバタリアニズム」と呼ばれ、完全なる自由を追い求めるものであり、本書では強い自由主義と呼称される。
デメリット
(1)能力主義に陥りがち。
(2)人間の倫理観に反した行動をしがち。双方の合意があれば自殺や人殺しもOKになる。自由を求めるので。
考えよう
(1)自由主義については少し議題がそれると思いますが「(1)能力主義に陥りがち」を基軸に、私から社会への疑問を提起します。
度々世間では、人間には生まれながらのチャンスが平等に与えられるべきだ!という人がいます。

しかし、資本主義である限り、能力主義は避けられない
共産・社会主義的な全的平等権を認めることは明白に不可能だとしても、例えば、そのような機会の平等を謳うとします。
そして、数々の人が挑戦を繰り返し、勝った人が富を得ていきます。

ではここからが本題。その勝った人はそこで得た全ての富を社会に還元するのでしょうか?しませんよね、そう簡単には。というか普通はしない。
なぜなら財産を個人的に所有する権利が日本等の国々では保証されているからです。
よって、その人が子孫にその富を継承したとします。
はい、その瞬間に機会の平等は崩壊するのです。
昨今の学校教育においても推薦入試枠やAO入試枠の肥大化が注目されていますが、富の差がある以上、経験できる物事の広汎さは変動してしまうのです。

財産の継承については、極度に良心的な人ならまだしも、一人でもそのような継承者が現れた時点で機会の平等は終焉してしまうのです。
まぁ現代の日本やほとんどの国々はそもそも自由市場経済を基準に展開されているので自明ですがね。

あなたは「機会の平等と現代社会の関係性」をどう考えますか?

直観主義(宗教の正義) ··· 人間の智を超越した所に1つの「善」や「正義」が必ず存在しているという考え。その善や正義が一番大切だとする考え。
デメリット
(1)誰にとっても明らかだと思える正解がない。
(2)人智を超越しているので不可視であり不可触である。
考えよう
(1)以前twitterで私はこのようなことを発信しました。
https://twitter.com/miyabi_kyosaka/status/1235209797005275136
「世界にはいろいろな考え方があって、正解は1つじゃないし、〜が絶対とか言ってる人っておかしいよね!」と語っている人も、実は絶対的なことを信じているということです。
だって「世界にはいろいろな考え方がある」という絶対的なことを信じているじゃないか。

なので、人間は生来的に何かを信奉せざるを得ない存在であり、何が正解なの?と探し続ける生物なのだと思います。

紹介した直観主義の概念を踏まえて、以下の私の問いかけを考えてみてください。普遍的で絶対的な1つの正義はあり得るのか。

だいぶ前にブログで紹介した『分人主義 / 平野啓一郎著』を例に、私の抱えている昨今の世間への疑問を問います。
https://learners-high.blog/archives/830673.html まだ読んでない方はぜひ!

先ほどの章でも触れましたが、人間には一様でない側面が多々あるのです。
本人が意識していなくても必ず多様な自分に変化しながら生きている。
いわば、未来の自分も過去の自分も「赤の他人」なのです。
加えて、今いる環境と違う環境にいる自分が異なった態度を示すことも多々あります。

しかしそれを踏まえると、人々は(時・場所・場合によって)多様な正義観(善・良しとすること)を持っているのではないでしょうか?

例えば、ちょっと考えてみたらわかりますが、Aという場所では「人に嘘をつくことは悪いことだ!」と言いながら、強盗や殺人犯が入ってきて「人質だ。家族はいるか?」と問われたBという場所では、家族を助けるために「いや、いません。」と嘘をつくことを人間は自分に許容したりする。

正義は一概には言えないし、「あなたはAという正義で、私はBです」とは言い切れないのです。場面によってその人の正義は揺らぎます。

私の研究対象である「教育」においても同じです。
学校の教室内で子どもたちは先生に従い、校則に従うことを正義とする。
しかし、心の内面や他の場面では「校則なんて無駄」と語る子どももいる。正義は常に内面的に分化するのです。

それゆえに絶対的正義を語ることはあまり好ましくない。「Aくんはああいう正義観のやつだから俺は一生付き合いたくない!」というのもまだ早いんです。
初対面の人とじっくり話しているうちにその人の違う姿や正義観(考え方)が垣間見えてくる可能性もあるのです。
正義はいわゆるTPOに必ず左右されると思うのです。

ではここから、先ほど掲載した記事で紹介している分人主義や正義の分化性という概念には深く関係しますが本書『正義の教室/飲茶著』とは全く関係のない話をしたいと思います。
でも大事なので。

日本は今、特に「精神的」に疲弊しています。
現代では再三「不倫するなんてクソだ!」「日本社会から出て行け!」など、人生における1回のミスで人を叩き抉る風潮が日本に蔓延しています。
そして、そこで叩かれた人々は一生その傷を背負い続けなければならない。

確認ですが、あなたは “メディアでの振る舞いがその人の全て” だと思っていませんか。
まぁそう見えるのは仕方ありません。メディア以外でその著名人たちを知る術があまりないのでそう思わざるを得ないからです。しかし、仮説としてその冷酷な対応があなた自身に降りかかった時のことを考えたことはありますか?
人間は今のところ一生、自分の眼球に内在するレンズを通した現実世界だけしか生きることができません。
『お金2.0』の著者メタップスの佐藤さんがおっしゃっていた現実空間の複数化・選択可能化的な現象は私たちが生きている時代に実現するかはまだ怪しいところです。

そして一番大切なことは、その人たち自身が自分の映るテレビ等の編集をしているわけではないということ。
YouTubeならまだしも、テレビは編集者によって出演者が思ってもいない切り取られ方をすることがあります。そんなことにいちいち騒ぎ立てている暇があなたの限られた人生の中にあるのでしょうか。

一人の人生を、あなたの書き込み1つが踏みにじることもあるわけです。
いわば、才能を”もぐらたたき”で潰しているわけです。自身の一時的な感情を和ませるために他人の大切な人生を犠牲にしていませんか?人は誰だって伸び伸び生きていく権利があるのです。
本人から見えないことを良いことに「本質と外れた部分」や「議論とは関係のない部分」で批判することは、能力のある人が日本社会への進出を怖がる傾向を助長するのです。あなたの感情だけで済まされる話ではありません。若い力が日本には必要なのですから。

最近話題の『FACTFULNESS』という本に書かれていますが、ニュースやメディアは視聴率や閲覧数を最優先事項として多数の「ネガティビティ」が含まれ人間の生物的欲求を魅了する報道をします。考えましょうよ。そして事実を知りに行きましょう。
少年犯罪は年々減っていますよ。貧困率も。
そして誇り高く日本を称えるテレビ番組だけを視聴せず、生の・現場の・本質的な事実を知りにいきましょう。
私もまだまだですが、共に考えましょう。
様々な側面を考慮せず、自分が楽だからと安易に人を批判することの愚直性を理解して欲しいです。

話が思いっきりそれましたが、最後の章であなたの生き方を考えましょう!

5. あなたはどういきますか
少し話がそれましたが、本書においてもう一つ重要な哲学的カテゴライゼーションがあります。構造主義(ポスト構造主義も大体言いたいことは同じ)です。

構造主義 ··· 人々は常に自身が生きる社会システムに支配されている。
ex)「おはよう」と心からいうのではなく、近所の人に気に入られる方が得をすると捉える。
また、「仕事をすること = 尊いもの」という考え方は資本主義的構造に毒されてしまっている。

この概念は非常に重要で、これを用いると「時代を作る人は構造を作る人」とも言えます。

なので、今まさに「仕事がなくなる」と唱えている人は新たな構造(社会システム)を提唱しているのです。
しかし現状そういった新時代の開拓者を取り巻く大多数の人々の思考は基本的に、仕事をすること、競争に満ちた資本主義経済が素晴らしい、そうすべき、という構造に支配されているのでそう簡単には変わらないといったところです。

なぜ構造主義を話に出したか。
今これを読んでいるあなたももしかするとそうかもしれませんが、そもそも「自分は何かに洗脳されている」こと自体を自覚していない人たちが多いと感じるからです。
それが原因で、日本全体の柔軟な進歩が遅れているのではないかと。
人間は生きている限り必ず何かに影響を受け、無意識に洗脳されています。
しかしながら、顕在意識上でそれを捉え、無意識的に考えている「仕事をするのは偉いことだ」や、例えば現在問題となっている古臭い男尊女卑的な考え方を見直すことは可能です。

そもそも人類は産業革命が起きる以前、ホワイトワーカー的な能力よりも武力や権力を重宝していました。なので言っても産業革命が起きて200~300年程度しかこの資本主義的構造は存続していません。

江戸時代には士農工商が当たり前で、人々は一生同じ村で暮らしましたし、安土桃山時代に豊富秀吉は身分統制令や刀狩りを堂々と行っています。

能力は時代によって変化します。
今はe-sportの実力も社会的に承認される一種の能力になってきましたし、時代は動いています。
そんな中、一時的に発生したに過ぎない構造にとらわれ、〜が絶対だと考えることは敗者の発想です。
今までこの記事を読んできたあなたならわかるはずです。

正解がある世界と正解がない世界があり、今のところ前者は学校の教科書で最後です。
そこからはその正解をもとに、自分なりに考えて、世界の情勢を読み取って行動していくことが肝要なのです。

私の個人的な着想ばかりで埋め尽くしてしまいましたが、要は「正義に正解はない」「人に正義を押し付けるな」「正義は刻一刻と様々な単位で変わる」ということが言いたいんです。

受験明けで凝り凝りに固まった頭なので、文章が纏まっていなくて申し訳ありませんが、今回の記事は以上です。

ぜひとも感想コメントお待ちしています!

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miyabi_kyosaka
教育実践キュレーター。慶應義塾大学在学中。NPO法人日本教育再興連盟ROJE所属。読売新聞学生記者。日本若者協議会所属。某 AO入試専門塾講師。N高等学校出身。|「未来は予測するのものではなく、この手で創る」をモットーに圧倒的行動で教育を一新しようと、教育ジャーナリズムの活動をしております。