2020年度を総括する、「様々なものを失ってきた最後に大切なものを拾い集める」【連載|高校生が現代を考える#24】

 

 

たった10秒、たった100mの勝負。

でも、その刹那の中に、たくさんの汗と、涙と、ドラマと、感動が詰め込まれている。

 

 2020年、僕らの住む日本には、世界中の人々が集い、平和とさらなる発展を願って一つのイベントをつくり上げるはずでした。そうです。2020年は東京オリンピックの年。近年では、賢さも、速さも、強さも、体力さえも人間を凌駕するほどのマシーンを人間自らがつくりあげてしまったにもかかわらず、依然として世界の最も多くの人が注目する出来事の一つであるオリンピック。それは、世界の平和と友好を裏付けるためのものでもありました。

 しかし、1年の始まりと共に、瞬く間に世界中に広がりをみせた新型コロナウイルス。国境を超えることはおろか、隣人にも会うのがはばかられるようになりました。そんな中でも、我が国日本の首相は交代し、超大国アメリカでも次の大統領を選出する選挙が行なわれるなど、普段と変わらないほどのニュースが世間の耳目を集めました。そこで、今回は2020年を振り返る回とさせていただきます。


【連載|高校生が現代を考える】SDGs編 Back Number
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驚異を見つめ直す

 この1年間、僕らは圧倒的に未知のウイルスに怯えて暮らしてきました。科学の発達が著しい今日だからこそ、何もわからないという恐怖が増幅されたのと同時に、人類の偉業に対して傲慢になってはいけないのだと改めて感じさせられました。コロナウイルスは、他でもない、人間にとっての脅威であったといえます。

 しかし、この一年間で出現してきた人間にとっての脅威とは、コロナウイルスにとどまりません。前回まで、この連載で扱ってきたSDGsにも多数盛り込まれているように、環境問題、食糧問題、貧困問題など、今後の人類の存続に関わってくる諸問題は僕らにとっての脅威であり続けるでしょう。また、2020年、イギリスはブレグジットを果たし、欧州統合の夢は傾き始め、アメリカ大統領選挙で浮き彫りになったのは、帰ってきた超大国としてのアメリカではなく、大きく分断されたアメリカでした。

 このような現状を見つめ、冷静に分析してみると、ある真理が浮かび上がってきます。それは、人間にとっての脅威が、、まさにその人間そのものであるということです。地球上のある一点で始まったにすぎない感染症の物語は、時を越える暇もなく空間だけを容易に越えて世界に広がり、独りよがりな情報が多数飛び交い、余計に人々を混乱させた。オンラインで済むことをわざわざ現実世界でやっている、そう揶揄されていた現代社会が本当にオンラインに移行してしまえば、現実に人に会うということの尊さを実感させられた。環境問題なんてあたかも外部の話のような名前がつけられているけれど、それもみんな僕たち人間の問題なんだ。そう感じました。

 ここまでコロナウイルスが蔓延しているのにも、やはり人間がその文明を急進的に、大きく発展させた影響であるようです。本来、ウイルスは日光に含まれる紫外線や土壌の中など、きわめて自然的な環境の中では容易に破壊されてしまうそうです。しかし、人間が生み出し、価値を見出してきたプラスチック等が多分に含まれた環境下では持続性を有してしまいます。確かに、プラスチックにとどまらず、ここ数百年の人類の叡智は、確固たる豊かさを生み出してきました。しかし、よくその効果を探ってみると、思いもしなかった悪影響が徐々に人間社会を蝕んでいることも、また事実であるようです。

 近年では、インターネットに代表されるように科学やテクノロジーの発達が著しかったように思います。そして、多くの人はそれらの技術に受動的な立ち位置で触れてしまいます。なぜなら、スマートフォンもSNSもガイドブックなしに容易に使うことができるからです。それは、僕ら、デジタルネイティブ世代には顕著であります。つまり、僕らは自然な流れでこの超デジタル社会に適応してしまったのです。しかし、今回のコロナウイルスのパンデミックは、一度そこにブレーキをかけ、もう一度科学とは何か、テクノロジーとは何か、ひいては人間とは何かというところを振り返らなければならない、というように示唆してくれたのではないでしょうか。

揺るぎない前提

 ニュートン、ダーウィン、ガリレオ、そしてアインシュタイン。その業績を深くは知らずとも、一度はその名を聞いたことがある科学者です。彼らは、現代の自然科学の最も根幹である部分の理論を見つけ出したことでその名が現代まで残っているわけです。しかし、科学とは何か、というその存在必要性までを問いただしたのならば、彼らの名が忘れ去られてしまう可能性がないとはいいきれません。

 僕は、そのようなことが起こりうるなど考えたこともありませんでした。しかし、2020年に桜田一洋氏が刊行した『亜種の起源』では、ダーウィンの進化論、自然淘汰論に対する批判が繰り広げられており、氏は「さよなら、ダーウィン」とまで著しているのです。

 もちろん、先のような高名な科学者の名が消えてしまうことはおそらくないでしょうが、僕らの当たり前に対して問いをたて、新たなパラダイムを模索する営みは行なわれ続けられているようです。ダーウィンの自然淘汰説は、自然界での不断のよって環境に適応できなかった種は淘汰されるというものです。これはアダム・スミスの市場経済に関する理論に結びつけて生み出されたのではないかといわれているようですが、現代では、このダーウィン進化論を裏付けとして市場経済の原理の正当性が証明されているようです。しかし、桜田氏はこのダーウィンの説に疑問を投げかけ、自然界では他との関係性の中で生物は生きており、共生ということが強調されています。

 僕は、コロナのパンデミックで経済が止まったことによって、旧体系の企業、産業が淘汰され、アフターパンデミックでは新しい日本が見られるのではないか、という期待をしていました。当時、安宅和人氏の『シン・二ホン』が自分の中で相当なブームでしたので、余計にその想いは高まっていました。識者の間でもそのように考えられていたでしょう。しかし、日本という国が世界経済に対して勝ち負けだけで判断して、不要なものを切り捨て、人材を再教育・刷新し、日本の中に煌びやかなシリコンバレーや深圳が生まれることが果たして正義なのでしょうか。再び世界のサプライチェーンが日本企業の名で席巻される日々が来て、皆笑うのでしょうか。そう疑問を感じずにはいられなくなりました。僕は、ここにコロナ禍での思考の意義を見出しました。

何が最優先なのか

 外食、旅行、エンターテインメント。これらのものはコロナウイルスの感染爆発の中では「不要不急なもの」として国民は自粛を強いられました。ただ、先進国日本では第3次産業が目覚ましく発展しており、それに従事している人がたくさんいるのです。一連の政策で、自らの毎日の努力が不要不急なものだと政府に宣告された人も少なくはないはずです。

 人と会う機会が極端に減ったのも、コロナ禍生活の特徴でしょう。政治が人々の接触機会一つひとつに要・不要を判断するわけにはいきませんから、そこは各個人の裁量に委ねられたわけです。つまり、あの人とこのような必要性があって対面する必要がある、一方で、こちらの場合には対面の必要性がないため、ビデオ会議や電話、チャットなどで済ます、というようにこれまでの生活を新しい価値観に則って選別するわけです。

 それに加えて、鼻から対面を断たれることだってありました。例えば学校。僕らは、休校という政府の判断によって、教師や友人と会う機会を一方的に阻まれたわけであります。もちろん、それには明白な正当性がありました。しかし、病院の場合ではどうでしょうか。

 多くの大病院では、感染を防ぐため、入院患者との面会を禁止したようです。こちらの場合でも、もちろん、この措置は正しかったといえるでしょう。なぜならば、入院患者は、健康な人に比べて感染した時のダメージが大きいと考えられ、また、入院患者間で感染が広がればその危険性が増大されるからです。ただ、入院患者の中には、闘病への苦しみを感じながらも、家族と会うことも許されず、いっそう孤独を深めてしまう人もいたでしょう。オンラインでいつでも会話できるとはいえ、やはり対面での見舞いに比べるとまだ全ての場合に有効だとはいえません。しかも、コロナ以外の病気も当然のように人間にかかってくるのです。最期に孤独をかかえたまま亡くなってしまう方も少なからずいらっしゃるでしょう。それでは、当人も家族も、看病した医療従事者もなにかわだかまりを感じずにはいられないかもしれません。

 全体性に対して手を打つことは、非常にわかりやすいという点で効果的です。面会すべてに対してNOを宣告することで、諦めもつきやすくなるかもしれません。しかし、もっとミクロに、個人それぞれの心に寄り添って考えると必ずしもそれがベストな判断だとはいえません。これは、当然のことであり、効率性の観点からも我慢を強いられる人が出るのはしょうがないことなのでしょう。しかし、このAI時代、もっと時間を割けること、もっと考えなければならないことがあるはずです。便利になった社会で重要なのは、その便利さをどのような方法で享受するのかというところです。それは、必ずしも進化を追い求めず、一歩後ろへ戻り、置き去りにしてしまったものをもう一度拾い集めることにたどり着くかもしれません。いや、案外、大切なものはそのようなところにあるのだと思います。

現代への洞察

 もう一つ、コロナ禍でオンラインへの移行が進み、授業もオフィスワークも、コンサートやイベントなどもオンラインで行なわれるようになりました。一方で、ネット上での誹謗中傷やいじめ、デジタルディバイドなどの諸問題はなお顕在化したままになっています。日本国内でも5Gの導入が始まり、実際にサービスの販売も開始されました。もうすでに、通信業界では6Gに向けた、熾烈な競争が繰り広げられているようです。

 スマートフォン、コンピュータ、インターネットは、その便利さで予測できないほどの変化を僕らの生活にもたらしました。ただ、それらが21世紀の最も主要な評論の対象であるように、様々な問題をはらんでいることもまた事実です。本連載でも、幾度となくその問題を取り上げてきたつもりですし、皆さんも様々な機会でこれらの抱える問題について思いをめぐらせてきたでしょう。2021年が始まり、数字的に新たな10年間が始まったというような印象を受けます。この10年間で、僕らとテクノロジーとの運命は、どのような結末へむけて動き出すのでしょうか。

 仕事の場であり、学びの場であり、交流の場であり、娯楽の場であるスマートフォン。それは、あなたのイヤホンを通して耳につながり、テレビや冷蔵庫を通して家とつながっているだけではありません。インターネットを通して世界中とつながっているのです。ネット上での情報の取り扱いや、IoT技術にAI技術が多分に織り交ぜられることによって最適化される暮らしについて、深く議論されているようには思えません。もちろん、幾多のメディアで取り上げられてはいますが、依然としてこうしたテクノロジーは一部の人の話であるからです。

 僕らは、2次関数も三角関数も、微分積分も教育によって伝授されたために、自分の知として用いることができています。どんなに天才であっても、師も教科書もなしに、一から数学の方を己の脳みそで生み出し、吟味し、成っていった人はいません。何かしらの補助線の中で、僕らはその能力を養って教育課程を修めてきたのです。しかし、膨大にあるネット上のサービス一つひとつを学ばずとも、少し触ってみると課題がクリアできてしまうために、インターネットという空間は時にその恐ろしさをみせるのです。もちろん、成長速度は桁違いであるにせよ、他の領域、他の学問に比べると、インターネットの歴史などまだ始まったにすぎません。その第一番目の世代である僕らが草をかき分けて、道なき道を探っていくのです。

 たしかに、インターネットという空間は、流れる時間の速さが現実世界とまるで違っています。SNS上のトレンドは、たった1時間でも僕一人を待ってくれるわけではなく、気づけば遥か彼方にいることさえあります。よく「情報の洪水」という表現がなされますが、人間が処理するには圧倒的にキャパシティーが足りない数多の情報群を前に、僕らは日々忙殺されることによってしか、社会コミュニティーを生きることはできませんでした。しかし、どうでしょう。1日、いや1時間でもネットから離れた世界で暮らしてみると、なぜあの世界に熱中していたのか、わからなくなりませんか?

 もちろん、そのたった少しの時間でも、ネットは僕という存在を置いてけぼりにします。僕などいなくても、巨大な何かは常にぐるぐる回っているのです。しかし、いくらネットとは切っても切れない関係であるとしても、その速さと情報の多さとは、思い切ってさよならしてみてはどうでしょうか。この現代では、人間に見合った程度の生活を追求することが難しくなっているがゆえに、逆にそこに何らかの真理が見えるような気がします。

 『亜種の起源』で桜田氏が放った「さよなら、ダーウィン」。自然、生命、人間社会などというものは、不断に闘争を行ない、適応しきれないものが負け、滅びていくような物語ではありません。自分と相手、自分と社会、自分と地球、これらが互いに互いを理解し、助け合うことで一緒に自然という環境のなかを生きていく物語なのです。この筋書きを僕らが心の奥底でうんと頷けるようになるまでには、あとどれくらいの歳月を必要とするのでしょうか。

 

(文責 : NGT @ngt_nanoka)

 

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