【大学紛争、学生運動とは何だったのか】サクッと雑学思考

 雑学紹介シリーズ雑学思考では、雑学を単なる雑学で終わらせず、既存知(知っていること)とを自分独自で「統合」し、「思考」するプロセスを重視しています。学校や塾の授業で使ってみてね。知って終わりを卒業し、知って・・・知って・・・もっと知って・・・・・・、最後にメチャメチャ考えよう! 


 巷でよく聞く「大学紛争(大学闘争)」とは、何らかの原因によって学生と大学が対立関係に陥った闘争のことを意味します。後年にはなんと予備校や高等学校も闘争状態に引き摺り込まれたので、学園紛争とも言われています。簡単に言えば、学生の抗議として学生運動によって、大学と学生が対立化して動きのことです。

 と言われても現代においてはあまり想像できないかもしれませんね。なのでその歴史を学んでみましょう。

 ちなみに大学闘争は闘争賛成派の呼び方で、大学紛争は闘争反対派の言い方です。

 ※下線部の付いているワードはクリックすると簡単に意味を閲覧できます。「ポップアップミーニング(造語)」と言います。

 

Ⅰ 学生運動が始まった 〜まだ闘争の中に「民主制」が残っていた時代〜

 

 日本では第一次世界大戦という世界的な対戦が終了した後に、大正デモクラシーという時期を迎えます。その頃から、当時の東京帝国大学(現在の東京大学)では新人会、京都帝国大学(現在の京都大学)では労学会、早稲田大学では民主同盟会などの学生団体が各地で林立していきます。ですが、戦後不況という経済的な打撃によって、全国的な学生運動は下火を迎えます。

 しかし、学生たちは常に血気盛んに運動を繰り返そうとします。いつの時代も若者は活発なものです。その後は労働運動農民運動など、自分たちが所属する大学とは無関係の場所で、学連という社会科学研究会を発足させたりします。さらに、追い風のようにマルクス主義の精力が増してきたことにより、左翼(革新)的な「時代を変えたい」と豪語する一部の学生に留まらず、広範囲の学生を取り込み、学生騒動が大量に発生しました。

Ⅱ 第二次世界大戦、全学連・安保闘争 〜やたらに名前が長い学生団体がたくさん発生する時期〜

 各地で多量な学生騒動を巻き起こした後、日本は国全体で第二次世界大戦という渦の中に巻き込まれていきます。なので、大半の国民は「もう学生運動は終わった」と、学生たちの活動に全面的な終止符を打とうとしていました。しかし、はい。暗唱しましょう。

 若者はいつの時代も活力あふれ、生命力に富んだ活動を繰り返す。

 そうです。結局、第二次世界大戦後は、GHQダグラスマッカーサーを中枢の人物としながら、全国の大学で「民主化」の動きが胎動し始めていました。第二次世界大戦が発生する前の大学は「国家総動員法」などに代表されるよう、国民が持つ資源の全てを国家のために使用していく風潮が広くあまねく流布していたので、大学は帝国主義的な公共の干渉を受けていたのです。それではいかんと思い、米国発のGHQを中心に日本の大学は民主化していきます。

 その流れを汲んで、学生運動も再び再起の時を迎えるのです。全国的な大学民主化の高揚感を背景に、まずは全日本学生自治総連合(全学連)という、やたらと冗長な名前ですが、全国的な社会科学研究会が発足します。全学連は共産主義社会主義の系譜を強く引いていたのですが、次第に共産党の複数員が、共産党に全身全霊で奉献する活動家たちを冷笑する気風が蔓延してしまったことで、もう学生だけで良いということになり、新左翼共産主義者同盟(ブント)という、これまた非常に冗長な名前の学生団体が結束化されることとなります。

 その後に全国民を巻き込んで大騒動となった日米安全保障条約に関わる安保闘争では、「アメリカの言いなりになるものか」と言い張る学生たちが一致団結し、当時の全学連であった安保全学連ブント全学連を中心に、精力的な運動を展開します。しかし、大正デモクラシーの終了と同じように、安保闘争の終焉後はブントが四分五裂したり、全学連が内部崩壊したりして、学生運動は下火を迎えます。

Ⅲ 全共闘というフェスティバル 〜ヘルメットと棒で戦おう〜

 安保闘争を終えて、悲惨な事件(機動隊とのもみ合いで学生が死去)も踏まえ、もう学生運動は再起しないであろうと皆が考えました。しかし、学生はやっぱり血眼を走らせて闘争を繰り返します。さっき確認した言葉、念のため暗唱してくださいね。

 60年代の半に発生したベトナム戦争に対し、「アメリカを後方支援して戦争に参加するなどありえない」という声が続出し、またもや学生運動が波及していきます。ベトナム戦争とは直接的な関係性に乏しいでのですが、例えば当時は早稲田大学で学費値上げに反対する学生たちが早大闘争を繰り広げたり、慶應義塾大学では慶大闘争と題し、学費値上げや不当な大学側の負債押し付けに反論を唱える学生が学園紛争を起こしました。

 そして遂に、学生運動は悪い意味でフェスティバル化していきます。羽田闘争を歯切りに、学生運動にはゲバルト坊棒ヘルメットが必須の武具となっていきます。つまり、民主主義的な大正デモクラシーの「話せば分かる」を乗り越え、人々が「居ても立っても居られない、武力だ」と学生たちが無作為に暴徒化していったのです。

 運の悪いことに当時は世界中でスチューデントパワーという動きが一般に普及しており、フランスのパリ五月革命や中国の文化大革命アメリカのコロンビア大学闘争など、日本人に留まらず海外諸国の大学生たちも「学生としての権利」を主張し始めたのです。そのせいか、日本の中では全く学生運動の関係のない街中の人々までその運動に吸収されることすら厳然と存在していました。

 60年代後半には、東京大学での闘争や全学共闘会議(全学連の集まり)という運動スタイルも勃興します。ですが、上記の運動は意図的に武器を振り回して主義主張を高昌する方式ではなく、バリケードを盾につけることで保守的な弁論を繰り返すに留まりました。一方、残存する苛烈な大学紛争では、日大闘争で機動隊員が死亡したり、岡山大学で機動隊員が投石を頭部に被って死去する事件も報告されています 。

Ⅳ 内ゲバ・リーマンショック 〜けっこう近いところで学生運動がまだ残ってる?〜

 当時は、日本の市民の方々も「学生は権利や熱意を主張するために頑張ってるね」と寛容な姿勢を一貫して貫きましたが、内ゲバ(内部の仲間割れ)や武器の重装化が予想以上に過激化してしまい、次第に「もう応援できない」という市民が現れ始めます。学生の側も1970年代に海老原事件(法政大学での内ゲバ殺人事件)やリンチ殺人事件という歴史上あり得ない事件が連続して勃発したことで、80年代には殆どの学生運動が落ち着きを取り戻しました。沖縄返還協定も締結されたことで、「なんで沖縄を占領するんだ」という反米意識も希薄化し、少し正気を取り戻したようです。

 直近の話題で言えば、2008年に生じたリーマンショック派遣切り内定取り消しに対する就職活動抗議デモが発生しましたが、やはり鎮圧されました。現在は衰退傾向にあり、脱原発デモ特定秘密保護法デモ集団的自衛権デモも存在しますが、数多のデモ団体が解散に追い込まれています。そして今日、学生運動という一時期のトラディション(伝統)は静かに息の根を止めたように思えます。あれれ、暗唱する文と矛盾するかな。

【シンキングタイム】

 最後に、記事を一読した後、ただ拝読するだけで終わらず、一度立ち止まって考える時間を設けてみましょう。例えば下記に例をあげてみます。
(1)大学紛争を起こす動機は”本当に教育制度への反対だった”のか?
   (「カッコ良い英雄になりたい!」とかいう学生いそうじゃん!)
(2)東京大学で勃発した歴史的な安田講堂事件は、なぜ東京大学で発生したのか?
   (教育制度に関心のある学生は偏差値の高い大学に集まりやすいってことかな!とか色々考えられる。)
(3)大学側が学生に対して降参したところはあったのか?仮に降参した場合、金銭的な取引や公的な謝罪などがあったのか?
   (えぇ、この度は誠に不当な行為を学生側に処してしまい、心よりお詫び申し上げます。的な笑)

(4)日本ではなぜデモ運動や学生闘争が「最近」は活発化していないのか?

(5)最も学生紛争が激化した国家は、世界中を見渡した時にどこの国であり、その歴史的背景は当時の政治経済の事況にどのような影響を及ぼしたか。

【補足】

 例えば、日本大学では、教育環境の悪化(学生の数が増加したのに教員が不足しすぎ!)や、財政負担による授業料の高騰(授業料高過ぎ!)、34億円の予算が意味不明な経路に垂れ流される事件が勃発して、大学首脳陣の退陣を要求する運動が発生していました。最終的には「日本全共闘」と言われるまで発展してしまい、250日以上に及ぶバリケード封鎖によるストライキが発生しました(よくバリケードの予算を算出出来たと思います。それほど熱狂的だったのでしょう)。この事件は、バリケードにちなんで「日大バリス」ととも呼ばれています。

 

 参考文献:『雑学ニッポン出来事図鑑/ケン・サイトー(KADOKAWA)大学闘争 / Wikipedia

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