功利主義とは何か 全体の幸福度を上げる[続]

功利主義の利点

 ここで少しまとめます。

前述したサンドウィッチを分配する場面しかり、功利主義には、以下の代表的な3つのメリットがあります。
・平等性がある
・(誰かから見た場合)幸福の総量が上がる
・物事の優先順位が付けやすい

 では、功利主義にはデメリットはないのか、という部分を深く掘り下げていきましょう。功利主義には決定的なジレンマが内在するのです。

功利主義のジレンマ

 功利主義は、人類全体で幸福の総量を追求するがあまり、極めて困難なジレンマに陥ります。

 まず、あなたは「今すぐに後進国の国を周り、自分が日本という国で食している豊かな食物を配って、飢餓や貧困で苦しんでいる人を助けろ」と言われても、急にその地へ出向く事が出来るでしょうか。あるいは、その国々に自腹でお金を送金する事が出来るのでしょうか。難しいと思います。しかし、この考え方は、功利主義に乗っ取るなら明らかに正常であると言えるのです。なぜなら、日頃から満足する食生活を送る私達が、昨日食べたのと同じポテトチップスを食べ、そこまで変化しない幸福の総量を上げるくらいなら、今すぐにそのポテチを貧困国へ配分して、その国の人々が食べた方が幸福の総量は上がるからです。こう考えると、功利主義には、個体差という名の下に、色々なデメリットがありそうです。

 「臓器のくじ」という、功利主義の欠点に関する面白い話があります。
ある功利主義者が以下の様な提案をしたとします。

・国民の中からくじ引きで無作為に1人を選び、その人を強制的に連行する。そして、その人の身体をバラバラに分解して、肺から膵臓、心臓に至る全ての臓器を移植の為に取り出す。世の中には不運にも病気に見舞われて苦しい思いをしている方々がいるので、その様な人々の為に取り出した臓器を提供する。

 これは、悲しいかな、功利主義的に考えると、完璧な提案です。なぜなら、自分一人が犠牲になる事で多くの人の命が救われ、人々の全体幸福度が上昇するからです。あなたは「いやいや、私はそんな問題とは利害関係が一切ないので、なぜ私が命を絶たないといけないのか」と言うでしょう。しかし、そもそも不運で病気に見舞われた人達だって、たまたま病気を罹患しただけで、その人たちが意思的に行った行為ではありません。だから、今すぐあなたの命を欲している人に提供すべきです。そうなのです。今言ったこと、これが功利主義の実体なのです。この問題は痛々しい例ですが、この例によって、幸福の総量を上げる為に全てを尽くすと謳う功利主義のジレンマが垣間見えたと思います。

 勿論、今挙げた2つの例は功利主義に於ける問題点の氷山の一角に過ぎず、その他にもたくさんの事例がありますが、取り敢えず、功利主義のデメリットを少しでも感じることが出来たと思います。

功利主義のデメリット

①幸福度はどうやって測るの?
 この問題は非常に深刻であり、最も根深いものです。ベンサムが牽引する功利主義では、幸福度が計算式に表せる、まさに快楽計算が可能である!と言っていますが、そもそもその様な計算式をどの様に成り立たせるのでしょうか。
 私も冒頭で「功利主義は幸福度を数値化するのです」と言いました。しかし、今思えば、どう考えても、皆さんが感じる幸福度など人によって異なりますし、それを統一的に判断することなど不可能に近いでしょう。

 しかし、一応ベンサムは、相対的な基準で幸福度を測定すると主唱していました。それは以下のようにです。

 例えば、500円玉を落とした人がいて、あなたがそれを拾ったとします。
 その時、500円玉を1つ拾う事であなたの幸福度が1点上昇したとします。
 そしてその後、500円玉を落とした人に、3000円上げるので殴ってもいいですか?と言われた場合、あなたが3000円貰えて、こんなひ弱そうな人に殴られるだけならまぁ大丈夫か、と思って承諾したとします。
すると、1回のビンタを3000円で容認するのであれば、500円=幸福度1点なので、ビンタ1回は幸福度を6点下げるという風に幸福度を表すことが出来るのです。
 今述べた通り、ベンサムは、幸福度を、紙幣やその他基準を用いて相対的に判断する事が可能であると主張したのです。数式で言うと以下の通りです。

6 ×「500円貰う」+「1回殴られる」=0

 これを踏まえて、「では、幸福度は常に一定なのか?」と更に考えを深めてみても、例えば、先程のサンドウィッチを分配し合う場面と同じで、人は、空腹の時に1つの団子を食べれば幸福度が5上昇したとしても、最後の満腹に近い状態では幸福度が1しか上昇しない事があり得ます。加えて、その数値も人によって異なります。なので、ベンサムの幸福度の測定はあくまで相対的でしかなく、一定的で変わらない客観的な数値を保証するものとは言えません。

以上の「①幸福度はどうやって測るの?」をまとめると
(1)人によって幸福の感じ方には差異が生じるので、1つの目安では判断できない。
(2)快楽は、1が100回続いても、100にはならない。時間的要素・主観性が併存する。
になります。

 次は、数値的・身体的に功利主義を捉えることのデメリットを紹介します。

②数値や身体性だけで幸福度を測定することに価値はあるのか?
 例えば、今後の記事で執筆予定のベンサムとミルという2人の哲学者は、ベンサムは「物体性(身体的快楽)」を重視し、ミルは「観念性(思考上の快楽)」を重視した事で思想が対立したと言われています。

 ミルの立場を説明するならば、先ほどから羅列している「サンドウィッチを食べる」などの身体的快楽だけが功利主義上の幸福度を表すのではなく、「質的快楽」と言われるような「クラシックを聴くこと」「本を読むこと」などでも快楽は測定可能でしょうという主張です。人間は、低俗的ではなく高俗的な事、高尚な物事を好む傾向にあるので、より難しい作業になってきそうですが。

 高尚や高俗はいわば「上品さ」や「威厳性」を意味しますが、極端な例で言うと、あなたがもし、温泉の女風呂を外から盗撮した時、その風呂場にいる女性が誰1人としてあなたの存在に気づかず、誰にも被害が及ばないまま、あなただけが得をしたとします。それはベンサムの快楽原則的に言えば、誰にも被害が及ばず、自分の幸福度が上昇しているので、素晴らしいと言えます。しかし、果たしてそれが「素晴らしい」と言えるのでしょうか。

 この問題は意外と明白で、そんな行為が道義的に素晴らしいわけがありません。ミルはこの様なことを主張したかったのです。量だけを追い求めて、自分たちだけの快楽を求めるのではなく、より高尚で高貴な快楽、「質的快楽」を求めよと。

 この事例を知った今、功利主義の根幹を成す「快楽計算」によって、身体性や数値だけで幸福度を測定することは不毛だと言えるのではないでしょうか。

③功利主義は他人に強制しがち
 父権主義(パターナリズム)という用語がありますが、この用語は簡単に言えば、権威を片手に、他人に独善的な判断を強制する事です。

 そもそも、功利主義でなくとも、自由主義や直観主義といった哲学上の言葉も、〜主義と言っている時点で「それに歯向かう人間とは決別しよう」という雰囲気が漂っていますが、功利主義は特にその傾向が強いのです。功利主義自体は、皆の快楽を誰かが決めた時点で、皆がその「誰かが決めた快楽」に囚われる必要があるのです。というか、囚われない限り、功利主義は機能しません。

 例えば、医学的な視点で見ると、ポッキーを食べて毎日を過ごす事は食生活の乱れや肌荒れ、健康的被害を生み出すので良いとは言えないし、改善すれば人生が豊かになると判断できるでしょう。
しかし、ある人にとっては、ポッキーを食べる事が至福のひとときだった場合、その幸福度を抹消すべきなのでしょうか? ほら。分かりますか?
 幸福度を高めるのが功利主義の役目なので、この様な問題が生じてしまうのです。
 つまり、何かが絶対に正しい、この人・集団が定義する幸福観は正しい、という空間にいると、その幸福の基準に則って、自分の幸福度も強制的に確定されてしまうのです。それが意味する所は、数値で表すが故に、統一した基準が必要で、それだからこそ「人々の幸福に関する価値観の違いを考慮できない」事態に陥ってしまうというものです。

 例えば、今あなたの住んでいる資本主義社会が、明日から共産・社会主義社会に変容したとします。
 現代の資本主義社会と相反する共産・社会主義システム、つまり平等を最重要視するシステムでは、あなたは〜という給料を貰い、ここで働けと指定されるので、資本主義社会では富裕層だった人も、たった1日で強制的に1つの幸福観に内包されてしまうのです。
 これは、財産権や自由権的な要素も絡む複雑な問題なのですが、要は、先ほどの医学の話もそうですが、人によって価値観が違う中、どこかでそれを統制しないとそもそも功利主義の基盤が成し得ず、それこそが、強権的、父権主義的な要素を生み出してしまうのです。

 最後に功利主義に賛同する人が見つける反論はこうでしょう。
 「いやいや科学技術がそれを解決するでしょう」と。
 しかし仮に、私たちの脳を徹底的に分析して練り上げられた科学技術が存在したとして、ICチップが人々の脳内に埋め込まれ、私達の脳内の全貌が丸裸になり、快楽を感じた度合いを一律に数値化できたとします。

 そんな世界では、誰が幸せを決めるのでしょうか?
 幸せを感じる瞬間なんて数え切れない程沢山ありますが、それを「〜したときに感じた快楽によって、あなたの脳は反応しました。よって、あなたの幸福度は1点上昇します」と言われても、そのAIが勝手に判断した幸せは、自分の中ではもっと素晴らしいものかもしれません。

 AIが行う客観的な測定方法が確立されたとしても、あなたはそのAIのデータに従いますか?
 AIに限りなく無数の医学的データや科学的分析の結果が内含されていたとして「朝は何時に起きて、朝食・昼食・夕食は全てこれを食べてください。そして、ジュースは1日1本しか飲んではいけません。なぜなら私AIの統計分析によると、それが最も人類を幸福にするからです。」と言われたら、どう考えても無理でしょう。
でも、そうしない限り、功利主義に於いて導き出される幸福度は客観的に測定不可能なのです。私達がその様な管理 社会的な世界に嫌悪感を抱くのであれば、やはり幸せには主観が包含されるべきなのです。そして、主観性が包含されるべきなのであれば、功利主義に客観性と実際的効力は無く、快楽を一方的に主張するパターナリズム的側面も、我々人類には適さないという事になるでしょう。

包括的まとめ

・功利主義とは、徹底的に幸福の総量を増やそうとする考え方のことである。
・「功利主義の父」はイギリスの哲学者ジェレミ・ベンサム
・功利主義のメリットは、平等性が担保されたり、(誰かから見た場合)幸福の総量が上がり、物事の優先順位をつけやすいというメリットがある。
・功利主義のデメリットは「①幸福度に数値的客観性がない」「②量的・質的であれ、人によって幸福観が異なる」「③父権主義的に陥りがち」の3つ。

 どうでしたか?
 今回は2記事に分割して、功利主義の全体像やメリット・デメリットについて深く学びました。次回からは、この記事にも登場した哲学者ベンサムやミルの生涯と、その思想について深く学びます。その際、功利主義について、より一層深く掘り下げようと思っております。

 今回の記事では、日常生活で現れるサンドウィッチ分配問題の様な場面や医療現場の問題も記載し、理解しやすい形を取りました。これを機に「功利主義」について深く考えてみてはいかがでしょうか。
 あなたが、今回の記事で「功利主義の基礎をしっかりと理解できた」と感じてくれれば幸いです。

 では、またお会いしましょう。

参考文献:『正義の教室』飲茶著、Wikipedia

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miyabi_kyosaka
教育実践キュレーター。慶應義塾大学在学中。NPO法人日本教育再興連盟ROJE所属。読売新聞学生記者。日本若者協議会所属。某 AO入試専門塾講師。N高等学校出身。|「未来は予測するのものではなく、この手で創る」をモットーに圧倒的行動で教育を一新しようと、教育ジャーナリズムの活動をしております。