祈るということを高校生が考えてみると【連載|高校生が現代を考える#26】

 


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 コロナ禍で、日常生活の至る所に制限が設けられるようになった昨今。それは、各国独自の文化が垣間見られる年末年始においても、同様でした。中には、例年では考えられないほどのゆっくり、落ち着いた年末年始になったと思った方もいるでしょう。しかし、一方では、数少ない孫に会えるチャンスを逃してしまった方も、久々に故郷へ帰る機会を失ってしまった人も少なくありません。2021年も、そのスタートから、新しい生活様式という言葉が聞こえてきそうな、ある意味で落ち着かない一年になりそうな気がしてなりません。

 

 年末年始といえば、恒例行事となっていつものの一つに「初詣」があります。それも、今年は「分散参拝」などが呼びかけられていつもと違った形式が取られたようです。お正月から、各メディアはカメラを抱えて、様々な寺社に赴き、混雑度がどうこうと声高に叫んでいるのがまだ僕の頭から離れません。だいいち、3が日に参拝せずとも、神の御利益は十分に与れます、などと神主さんがインタビューに答えているのを度々目にしましたが、数年前に見た新聞記事では、出来れば3が日に、しかもなるべく早い段階が好ましいと書いてあったような気がします。神様は、そこまで人間社会の病理に寛容に付き合ってくださるのでしょうか。

 

 近代科学の発展は、ニーチェの「神は死んだ」という言葉に代表されるように、人類の精神の拠り所を少しだけ変えました。世界的な宗教のトレンドとしては、スティーブン・ピンカーが指摘しているように、「無宗教者」がその勢力を拡大させつつあるのです。いくらコロナ禍とはいえ、是が非でも神の御利益を、と必死になって祈りに行く行事としての初詣をしているのは国会議員くらいなもので、多くの人は、どこか自らの一年間のスタートとして、エンジンをかけるための象徴的行事として初詣に出かけているような気がします。

 

 しかし、自分がピンチに直面したとき、自分自身の力一つではどうしても敵わないと無力を感じたとき、なぜか神仏に頼ってしまうのが人間でもあります。誰にでも、「祈る」という自発的な営みが備わっているのだと、僕は思います。そして、祈りによって、僕らは楽になることができ、賢くなることができ、いっそう強くなることができるのです。

 より公的な初詣として、毎年恒例になっているのが、首相の伊勢神宮参拝です。毎年、慣例として1月4日には、総理大臣が新幹線に乗って、天照大神が祀られる伊勢神宮へ、はるばる参拝へと出かけるのです。毎年、首相は何を神様に祈願しているのでしょうか。

 

 しかし、昨年末、とあるニュースが流れてきました。菅首相が、伊勢神宮参拝を見送るというのです。確かに、首相はじめ、内閣の面々は年末年始の「自粛」すなわち「ステイホーム」を呼びかけていたわけです。その当の本人である菅首相が自ら、それを破ってのこのこと伊勢神宮に出かけるわけにはいかないでしょう。もし、実際に伊勢神宮に参拝しにいっていたのならば、野党にとどまらず、与党内からも激しい糾弾があったのではないかと予想されます。

 

 僕の認識では、日本国民も、このニュースにはそれほど目を留めず、首相の懸命な判断だとして議論も起きなかったようです。しかし、いくら国民主権とはいえ、日本の政治的トップに君臨する総理大臣が、年始に際して、国の安寧を祈らなかったことが、そのまま流されていくのには納得できません。二十数年前、時の村山富市氏が総理大臣であったときに、村山首相は風邪を理由に新年の伊勢神宮参拝を執り行いませんでした。すると、さほど時が経たないうちにあの阪神淡路大震災が発生したのです。

 

 ここで、僕が言いたいことは、首相が参拝しなかったことで、今年何らかの国家的危機が巻き起こるのではないか、ということではありません。その時は、村山首相が参拝しなかったことで震災が起こったのではないかという批判が続出したのです。元寇という外からの危機に際して、この国の貴族が必死になって祈ったように、祈りには確かな力があります。それは、霊物的なパワーのことではありません。日本人のアイデンティティーを呼びおこし、大和魂に勇気を与えるような力のことです。

 

 日本人の大勢順応主義的な精神文化がうまくはたらいたせいか、日本はコロナ対策に必要とされた生活の新様式にいち早く適応することができたとして、一定の評価を得ています。しかし、適応しすぎて、価値観を社会に奪われてしまってはなりません。感染症対策という特定の側面からみたときに、合理的で理想的な英断であっても、もっと視点を高く、広くしたときに、必ずしもそれが賢明なものではないはずです。哲学が万能ではないように、科学も万能ではないのです。科学を信じるためには、哲学を信じることが必要不可欠なのではないでしょうか。

 

 アニミズムも迷信も、科学技術の勃興によって「価値ないもの」だと暗黙のうちに位置づけられるようになっています。おそらく、科学こそは正義であり、お金こそが大義名分であり、勝利こそが人生最大の目的なのでしょう。しかし、霞がかった風景の向こうにある、ぼんやりとして見えないものをわざわざ見に行くのも良いですが、目をつぶって見えないものに想いを馳せる、想像することも大切なのだと思います。それこそが、祈るという行為の本質であり、現代においても変わりなく生きている僕らの観念なのではないでしょうか。

 

文責:NGT(Nagata Shunta) @ngt_nanoka

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