【連載|高校生が現代を考える#1】個人と集団、SNSの危険性

【連載|高校生が現代を考える#1】個人と集団、SNSの危険性

 私たちの日常生活において、SNSの急進的な普及は、メディアとの付き合い方を大きく変える事態を引き起こしました。良い話題も悪い話題も、あっという間に拡散され、ニュースの出どころ、情報源がSNSということも少なくなりません。そんなSNSが様々な社会問題を引き起こしていることは、すでに多くの媒体で明らかにされています。この記事では、すでに論じられたものよりももっとSNSの本質まで迫って、現代人とSNSについて論じていきたいと思います。

 今回は日本人になじみの深いTwitterを取り上げたいと思います。1つの投稿につき、140字という制限がついているTwitter。Twitterにより、私たちの生活はどのように変わったのでしょうか。


匿名性と拡散性

 他のSNSに比べて、社会全体へ向けての発信、という傾向が強いのがTwitterだと感じます。なぜなら、実名での利用が義務付けられているFacebookは、実名という制約のおかげで現実世界での知人と交流を深める場としての要素に富み、Instagramは、画像、もっといえば日常を掘り下げて発信する場になっていて、一部インフルエンサーを除いて、一般のユーザーにとってはこれも現実世界で知り合っている人同士でつながるという場になっているように思えます。

 しかし一方でTwitterは、匿名性が高く他のSNSに比べて拡散性が強いため、広く社会に向けて自分の声が届きやすい場になっています。したがって、匿名性の功罪として、顔、名前を出してはとても言えない本音も、責任を取ることのできない過激な発言も平気で言ってしまえるのです。

集団という安心感

 現実世界において、人間はマジョリティーに属していたがる傾向にあります。

 何か世の中で流行りの商品があり、周りの人が揃って持っていたら、手に入れたくなるのは自然な流れです。Twitter上でも同じ話で、トレンドになっているような話題にはすぐに飛びつき、自分もその内容に関するツイートをしてしまう、というのが人間の根源的な真理だと思います。悪いことに、これが好ましくないような話題にも適用されてしまうのです。議論なき批判や、特定の個人を対象にした誹謗中傷が起きてしまうのは、マジョリティーに属することによる功罪のような感覚になっているように思えます。

 それがうまく働いたのが、先日の改正検察庁法に反対する、Twitter上での激しいムーブメントです。内閣の恣意的な人事になってしまわないか、検察のトップが内閣にいい顔をするようになってしまわないか、定年延長の決定権が内閣の手にあるという法律になろうとしていたため、著名人をはじめ、反対の声が多数ツイートされ、しまいには法律案の提出を取り下げるという事態になってしまいました。加えて、そのような法改正がなぜ、このコロナウイルスで日本が危機にさらされている時期に行われたのか、という疑問の声も多く聞かれました。

 ここで、よく考えてみましょう。この法改正について、細かく言及するのはこの記事の本題ではないため、省きますが、この法改正に反対する声を拾い上げて、国会という場において野党は内閣を激しく追及していました。それに対して、内閣は正当な答弁をしないまま、世論の声だけが増大していき、ただ、勝手に内閣が法律案の提出を取り下げた、という結末になってしまいました。

 この話の、いったいどこに、適正な議論があったといえるのでしょうか。たとえば、コロナウイルス渦中において、なぜこのような緊急事態と何の関わりもない法律の改正を急ぐのか、という意見に対して、もともと計画されていたことだとすれば、運営上問題はないのではないか、という反論の声がありました。しかし、現政権の批判という、いわばマジョリティーの暗黙の了解が規模の利益を見せたような形になってしまったように思えます。

 この一連の動きを、民衆の勝利、民主主義は守られたなどと評価するには拙速すぎます。政権も野党も、そして国民も意義のある深い議論には程遠いところにいるように思えます。政治を行なっていくうえで、本当に必要なものは何なのでしょうか。

直接批判できる時代に

 そして、その後、プロレスラーの木村花さんが亡くなったというニュースが世間で波紋を呼んでいました。どうやら、木村さんの死の原因が、ネット上での誹謗中傷にあるという報道があり、SNSとの付き合い方を見直すきっかけとなるムーブメントが起きているように思います。

 著名人の対抗策として、自分への誹謗中傷に対して法的手段を講じて解決するという方法をとった方がいるようです。しかし、誹謗中傷をしないことの理由が、損害賠償金を払いたくないから、であったり、自分が逮捕されないように、であったりといったものになったとしたら、果たしてそれが道徳的と言えるでしょうか?

大衆化された論客という資格

 そういったレベルの議論をすべきところまでに、インターネットの触手は伸びてきているのです。

 SNSによって、社会に名の通っていない人の声でも、政治へ、あるいは、著名人本人へと届きやすくなりました。物理的な制約や、立場上、手続き上の問題といった障壁を打ち破り、自己実現の可能性をSNSは広げてくれました。しかし、その一方で、自らの発言がどこか独りよがりになっていたり、人を傷つけるようなものになっていても罪悪感に欠けてしまうようになってしまったりと、中身がない空虚な発言となってしまう場合も多くあるのではないでしょうか。社会全体としてみても、意見だけがスタートダッシュを切り、肝心の根拠となる部分は空回りしているように思えてなりません。

 このような、空っぽな社会をつくりだしている場がTwitterだと思います。先ほどの改正検察庁法の問題でも、木村さんに対する誹謗中傷が寄せられていたのもTwitterでした。僕は、ここで、Twitterが悪いサービスだと申し上げているのではありません。Twitterは同趣向の人同士が、現実世界に囚われずにいられる場でもあります。ただ、一歩間違えれば人の命が、国の運命が揺るがされる事態となっているのです。

サービスの価値を有効につかうために

 熊本地震が発生した際に、ライオンが逃げ出したというフェイク画像が様々な議論を呼び、フェイクニュースに関する世間の関心もここ数年で非常に高まっています。しかし、相手はマジョリティーです。数万、数十万ものアカウントで、#検察庁法改正案に反対します、というツイートがなされていたら、誰もがそうだと思ってしまうのではないでしょうか。もちろん、その意見が間違っていたと言っているのではありません。ただ、もし誤った情報がムーブメントとなっているときに、数字に踊らされて自分も加害者の一人になってしまいかねないと思います。

 Twitterを使うことの価値は計り知れないほど大きなサービスになっています。あなたがつくったモノを売るためのよい宣伝の場になるかもしれません。あなたの意見を社会に届けるための場になるかもしれません。ある人のファン同士がつながりあって、心を満たすための場になるかもしれません。インターネットがもたらした恩恵はこれほどに大きいのです。しかし、使い方ひとつで大切なものの存在が揺るがされかねません。Twitterがなくてはならないものになった今だからこそ、Twitterというサービスの真の価値を、自分の頭でゆっくり考えてみてください。

 

(執筆:NGT @ngt_nanoka

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miyabi_kyosaka
教育実践キュレーター。慶應義塾大学在学中。NPO法人日本教育再興連盟ROJE所属。読売新聞学生記者。日本若者協議会所属。某 AO入試専門塾講師。N高等学校出身。|「未来は予測するのものではなく、この手で創る」をモットーに圧倒的行動で教育を一新しようと、教育ジャーナリズムの活動をしております。