SDGs-16、平和と公正をすべての人に【連載|高校生が現代を考える#22】

 

 持続可能な社会、地球を未来に残すための目標を定めたSDGs。この連載では、17回にわたってその17の目標をひとつひとつ読み解き、向き合っていきたいと思います。現代人によって生み出された多くの問題を解決する責任は全ての人にあります。未来の世代に少しでもよい地球を残すため、ぜひ、当事者の一人として、自分にできることを考えつつ読んでいただけたらと思います。


【連載|高校生が現代を考える】SDGs編 Back Number
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  さて、今回のテーマはSDGsの16番目の目標である「平和と公正をすべての人に」です。今回は、平和と公正というこれまでに取り上げてきたSDGsの課題の中でも、より普遍的で目に見えにくく、人間の内面的な課題も盛り込まれている内容だと思います。単に平和といっても、その意味は幅広く、武力的な紛争状態にないことを平和だと定義づけることもできますし、経済的に不安のない安定した生活が送れることを平和だと定義づけることもできます。また、公正といっても、法のもとに公正に扱われることだけにとどまらず、全ての人の共通認識として認められることが公正なのかもしれませんし、マイノリティーをマイノリティーだと認識しないことが公正だということもできます。

 僕自身も、1人の人間ですので、今回のこの課題を取り上げるにあたって、これまでの貧困や食糧危機や教育、まちづくりといったより客観的で数値化することも可能な課題とは異なり、僕自身の想いが盛り込まれてしまう可能性もあります。おそらく、道徳的に正しいことは存在しても、それを扱う一人一人の人間が直感的に受け入れられない内容だとしたら、それは世の中で全うされるはずもなく、課題解決には至らないわけです。平和な社会だといわれている、時にはそう揶揄されている日本に住む僕らが真剣に向き合い、解決へ向けて考えていく必要があります。

SDGsを再考する

 やはり「平和」と「公正」という2つの言葉は、捉え方によっては全く違った解釈が生まれるであろう、割と広義な言葉ですので、念のためこの今回の目標の言わんとするところを調べてみました。すると、やはり、「平和」とは不当な暴力行為や虐待などから守られる権利が保障されていることでした。また、「公正」とは司法の上で平等に扱われることを指していました。加えて、汚職や贈賄のない社会とも記されており、政治がすべての人に公正に運営されることも掲げられているようです。

 ここで、僕が指摘したいSDGsの欠点が浮かび上がってきます。たしかに、SDGsとは国連や各国の政府、行政機関が推進して持続可能な社会をつくり上げるために定められた目標です。そのため、どうしても数値化できるような内容が多く、つまり、ここで挙げられている課題の多くは僕たちの目に見えるものだと感じます。十分な食料が行き届いているか、子どもたちが学校に通えるか、気候変動は抑制されているか、こういった問題はすべて客観的に数値化して評価することのできる問題であり、単純な目視で認識できるものです。

 今回の「平和」と「公正」の問題で具体的に挙げられている内容も、現実的な暴力行為からの解放であり、すべての人を法律が守っているかどうかに重きを置いています。次回の「パートナーシップ」の目標は、少しばかり相異なるものになりそうですが、それでも社会の物質的、現実的な部分に限定して目標設定が行われているSDGsが過剰に推進され、独り歩きしていったら少し危険なのではないかと思うのです。

 持続可能な社会を考えた時に、僕らが直感的に必要だと感じるものは、やはりインフラや衣食住を十分なものにするためのシステムであろうと思います。これまで、本連載でも15回にわたって、そのような論点について考えてきました。しかし、この社会も、そして個人の生活も営んでいくのは1人の人間として僕らが活動しているがゆえだといえるでしょう。その僕らの行動一つひとつは何に左右されるのか。

 この答えには意見が様々出るでしょうが、僕は「感情」だと思います。「因果を超越した情動」という僕のnote記事にも書いたように、論理的に根拠づけすることは後からでも十分可能です。しかし、その場での咄嗟な判断にとどまらず、最初に認識した自身の感情が行動選択を決定づける大きな要因となることはそう少なくはありません。一種の動物として、人間もある程度の情動が備わっていると考えられ、それがしばしば僕らの行動を左右するわけです。

 そこで、先入観的なバイアスが働き、ある特定の人種を真っ向から嫌悪したり、男女間で故意に差異を設けてみてしまったりと社会悪ではあるけれども、どうしようもなく身についた感情が人間にないとも言い切れません。実際にそれが社会問題に発展することもあります。この人間の内面に関わる分野でも、社会の持続可能性を損なってしまいかねない状況で、SDGsではその辺りの課題がうまい具合には盛り込まれていません。いくら物質的に行き届いた生活が送れようと幸福には繋がるわけではないように、もっと人間の心についても社会で取り組んでいく必要があると僕は思うのです。

 はっきり言って、SDGsの17の目標を2030年までに人類が達成できるはずがありません。ピケティの指摘のように、貧富の格差はますます大きくなっていき、気候は歴史上類をみないほどに荒れ狂うでしょう。安全で健康な生活が送れている先進国内でも生活習慣病などの豊かさゆえの新たな問題が勃発しています。悲観的にいえば、SDGsなど戯言です。

 それでも、僕らは明日をより良くするために行動を起こさなくてはなりません。壊れた地球を修復しないことには、人類が絶滅することさえも許されないでしょう。いくら不可能に思えても、SDGsという全世界で共有されたベクトルの示す方角へ向かって歩んでいかなければならないのです。新たな問題の発生にも屈しない、人間の心の強さがまさに必要な時なのです。

平和を享受する

 そうは言っても、現実的にSDGsで示された「平和」と「公正」を達成することも持続可能な社会実現のためには欠かせない内容です。そこで、まずは「平和」の方について考えていきましょう。

 それでは、みなさんにとって「平和」とはどのような状態を指すでしょうか。僕が、「平和」という言葉を今回目にして、真っ先に思い浮かんだのは日本国憲法第9条のことでした。憲法9条では、戦争の放棄と陸海空軍その他の戦力の不保持、それから交戦権の否認が定められています。日本国憲法のことを俗に「平和憲法」と呼ばれる理由がこの憲法9条にあるわけです。

 この憲法9条は、第二次世界大戦の反省を受けて、二度と過去の過ちを繰り返さないために定められたものであります。他国がこぞって軍拡競争を繰り広げていたあの時代に、このような内容を含む憲法を定めることは、苦渋の決断だったのではないかと考えます。結果的に、現在、自衛隊という戦力なのか否か、判断が難しい組織があるにせよ、法律の最も基礎となる憲法に戦力の不保持や交戦権の否認が掲げられている日本は、平和国家・平和社会の先駆けであるといえるでしょう。

 そんな日本に暮らす僕らのほとんどが、毎日の生活を肉体的な苦痛なしに送ることが出来ています。おそらく、ニュースでしばしば見られる家庭内暴力や虐待などは他所事のようにしか聞こえないという方も多いでしょう。これらは、確かに一つの確固たる社会問題としてメディア等で取り上げられてはいますが、僕らが認識しずらい問題でもあります。加えて、日本において、テロリズムは外国のお話と化してしまっており、本当に平和な社会で生きているようです。

 それでも、本当に平和だといえるのでしょうか。いいえ、いえるはずがありません。この日本でも、毎年多くの人が生きてゆく苦しみに耐えられず、自らの命を絶ってしまっているのも現状であります。みなさんも一度は自らの命を絶つという行為がいかなるものなのか、想像してみたことはあるでしょうか。僕は、テレビドラマなどで武士が切腹するシーンを目にすると、自らの命を絶つという行為がどのようなものなのか、想像してしまいます。もう次の瞬間には経験したことのないであろう苦しみや悲しみや恐怖が待っているのかもしれないのです。それでも、その一歩を踏み出してしまうほど胸の中に大きなものを背負っている人が大勢いるのです。日本では、未だに、子どもが産まれて3年以内に子育てに関する悩みが原因で自死してしまう母親が年に100人前後いらっしゃいます。まだ、小さい子どもは大人の何千倍も、何万倍も大きな可能性を秘めています。それでも、現代的な生活スタイルや地域コミュニティの状況が子どもを育てにくい環境を演出しているのです。

 いくら、犯罪的な暴力行為による肉体的苦痛から解放されていようと、精神的な傷が世の中にあふれているようでは、本当に平和な社会だと胸を張って世界に顔向けできるものではありません。もちろん、世界に目を向ければ、今も紛争が続く国、テロが多発している国、親元を離れざるをえない子どもたちはたくさんいます。日本は、目に見える範囲ではまさしく平和な国なのです。今は、苦しい状況に置かれている国でも、いつかは日本のように本当に平和な国になりたい、そう思ってもらえる僕らでありたい、と感じました。

公正な立場で

 次に、「公正」の問題について考えていきましょう。しかし、こちらの「公正」の方は、先程の「平和」の項目よりも一段と法規上の内容が多く、実際的に僕らが何か働きかけることができるのかといったら、とても微妙なラインです。確かに、国の運営に対して監視の目を光らせておくことは重要ですが、全ての人が法律を語るのに必要な知識を身につけているわけではなく、逆にそのような人が大多数だと思います。そんな中で、全ての人を対象にしたオープンな議論の場を設けても、的外れな意見がSNSで大きな潮流をつくり、世論として築かれてしまっては本末転倒ですよね。

 任せるという言い方は本意ではありませんが、制度上、三権分立という相互監視システムは整備されているわけですので、大部分の議論はそこに譲っても良いでしょう。大切なのは、そこで役目を果たす人間が不正を働かないことです。これは、実際にSDGsのターゲットにも汚職や贈賄の禁止として盛り込まれています。ただ、マスコミの報道に便乗して権力者を叩くのではなく、行為の正当性を熟考した上で妥当な批評を述べられるリテラシーを身につけたいものです。

 そのために重要になってくるのは、やはり教育でしょう。知識を身につけることに重点が置かれている今の公教育では破綻してしまいます。その知識をもとに、どう考えるのか、その辺りの思考力をきちんと養い、1人の社会人を形成していく責務が教育にはあります。また、そのためには学校という現場に限らず、教師や保護者個人の人間性も重要なファクターになってくるでしょう。

この項目の結びに

 今回、「平和と公正をすべての人に」という見出しを掲げておきながら、冒頭でそこから派生したSDGsそのものについて論じました。しかし、ほかの動物が認知しない感情を多数有している人間が運営する社会で、その内面的な要素を抜きにして存続性云々の議論ができるのか、という意識をみなさんにも感じて欲しかったのです。

 この想いは、僕が元から持っていたものではなく、連載のSDGs編を書き進めていく中で感じるようになったものです。初めは、17もの目標一つひとつに対して、ここまで書いてこられるとは思っていませんでした。そんなSDGs編も残すところ、これを含めてあと2回です。この段階で、みなさんにSDGsが包摂しきれていない問題を認識していただくのもいいのでは、と思いました。

 これこそ、この連載で僕が目指しているスロージャーナリズムの一種かなと思いますし、既存のものに縛られずに世の中を見つめることかと思います。今年は新型コロナウイルスの感染拡大で、僕らの生活が一変した1年でした。オンラインで済むことが本当にオンラインで済むようになり、現実で人と会うことの大切さを身にしみて教わった1年でした。ステイホーム、外出自粛という言葉が生まれ、家にいる機会が増えた年でもありました。これを機に、おうちでゆっくりと自分の内面を見つめてみてはいかがでしょうか。自分の心の奥底から湧いてくる情動を、正直に認識することが持続可能なあなたをつくる第一歩になるのですから。

(文責:NGT @ngt_nanoka)

画像引用元:
外務省『持続可能な開発目標(SDGs)と日本の取組』PDFよりhttps://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sdgs/pdf/SDGs_pamphlet.pdf  (2020.08.05)

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